40代サラリーマンが人生の価値観を見つめ直す話

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人は誰でも自分を否定されるのが嫌だ。怖いと思う。

特に大人になって経験を積むほどに、これまでの経験=自分と錯覚してくるので、これまでの自分の経験、即ち自分の取ってきた選択肢を否定されるのが怖くなる。

だから普通の人は急に生き方を変えられない。

自分のこれまでの人生を否定するのはものすごく勇気のいることだ。

 

日本の社会人の大多数を占めるであろうサラリーマン諸兄。

35~40歳くらいで、この先の人生を考える機会があると思う。

きっかけは結婚や子供の誕生、マイホームの購入、転職、あるいは会社の研修などいろいろあるだろう。ロバート・キヨサキの「金持ち父さん 貧乏父さん」なんかを読んだかもしれない。

 

 

そしてその時初めて気が付くことになる。

サラリーマンとはまったく違う道で成功している人たちがいることに。自分の属する世界とはまったく違う世界が存在することに。

そこで華やかに注目を浴びるのは実業家、若社長、投資家といった肩書きの人たちだ。

※芸術家やアーティストの類いはステージが違いすぎるのに比較の土台に乗らない。

 

大人の男がそのステータスを判断される基準の最も大きなものは、お金だ。いくら稼いだ、あるいはいくら稼いでいるかだ。

もちろんこれだけではないはずだが、わかりやすいから目立つし好まれる。

 

そして、サラリーマンの自分ではあり得ないようなお金を稼いでる人たちの姿を見て、思い悩んだり葛藤したりする人もいるだろう。

自分が選んできたサラリーマンという道は正しかったのか?と。

 

家族のため、老後のため、資産を増やしましょうというお触れの元に今更ながらお金や投資の勉強を始めたりして、そこで気が付く。

ああ、これは無理だな

 

能力や技術の問題ではなく、思考価値観の問題だ。長年サラリーマンを務めてきた我々の思考はサラリーマンの枠組みで最適化されている。それが求められてきたのだから当然だ。

 

無論、これは悪いことではない。そこにどっぶり浸かって、定年まで脇目も降らずに働くのも幸せな人生の1つだと思う。それを否定はしない。

 

 

さて、ここでそんなサラリーマン的思考に染まっている私自身の辿った思考や行動を振り返ってみたい。

 

大学卒業後、自分の意思でサラリーマンとなることを選んだ。首尾よく大手と呼ばれるところに入社することができ、世間一般よりは高い給料をもらうことができた。

 

結婚後、訳あって転職し、今度もまた大手に入り給料も少し上がった。子供も生まれ、家族を背負う幸せを感じ、転勤族だからマイホームは早々に諦めたものの、趣味を楽しむ余裕もあり、それなりにうまく人生をやってこれたと思う。

 

余裕があったある時、投資に眼を向けてみた。株や投資信託、FX等々。いわゆる余ったお金でやっていたのでリスクは少なかった中、多少の儲けは出たが結局やめてしまった。やってる間は常に値動きや資産の変動が気になってしまってダメだったのだ。

 

次に副業に目を向ける。サラリーマン以外の道を探ってみたくもあったのだが、ここではっきりと価値観の違いに気が付いた。

 

サラリーマンを20年近くやっていればそれなりの知恵は身に付くので、成功している人に学んでいくのがよいだろうと考えた。幸いと呼んでいいのかわからないが、今はそうした情報がネットに溢れている。

 

取り組みやすそうなあるジャンルで成功している人を見つけ、勉強を進めていった。確かに発想やノウハウは得られるものが多かった。この人についていって、同じようにやれば、同じように成功(つまりお金を稼げる)できるかもしれないと夢を抱いた。

 

 

でもある時、疑問を覚えた。

その人の発言に共感、納得できない部分が出てきたからだ。

 

その人は若いときからその事業にものすごいエネルギーと時間を割いてきて、だからこそ成功している。それは本当にすごいことだと思う。

 

でも、次の発言内容は私には到底共感できるものではなかった。

 

曰く、自分は○○に何千時間も費やしてきた、その結果今ものすごく稼げるようになっている、同じ時間勉強したら医者になれるがそれよりも稼いでいる、だからみんな○○をやろう、と。

 

これを見たときの強烈な違和感は今でも鮮明に覚えている。

 

お金目当てで医者になる人もいるかもしれないが、やはりどこかで世のため人のため、命を救うためという志を持って医者を目指す人も少なからずいるはずだ。

それをお金という土俵に無理矢理引きずりおろして、どれだけ稼げるかという基準に当てはめて自身を誇示するやり方が本当に気持ち悪かった。醜悪に見えた。

 

そこで少し目が覚めた。

ああ、この人とは価値観が違う。同じようにはやれないなと。

 

 

そして同時にその人を否定したくなったがそれも難しかった。冒頭の話に関連するが、その時までその人を信じてやってきた自分を否定するように思えたからだ。それは嫌だったし怖かった。認めたくなかった。

 

しばらく悶々としてから、自分なりの結論を得た。それはこういうものだった。

 

その人の価値観や性格や言動がどうあれ、有用な知識やノウハウは学ばせてもらう。

 

その人の価値観や人格と、提供してくれる情報は別物だ。全肯定も全否定も必要ない。必要なところだけつまみ食いさせてもらえば良い。

 

今現在の自分からするとまったく当たり前のことだが、気が付いて、腹落ちするまでずいぶんと時間がかかった。

 

次に目を向けたネタでも同じようなことがあった。提供される情報は非常に魅力的だったが、その人の価値観や行動は到底真似できるものではなかった。

逆に言えば、価値観や行動にはまったく共感できなかったが情報だけは欲しかった

 

 

こうして文字にしてみるとなかなかドライだとは思うが、この辺りがちょうどいいんじゃないかと思う。人格含めて全肯定になったら、それはそれで宗教じみて別の問題を生みそうだ。

 

両者に共通しているのは、いかにお金を稼ぐかという点にものすごい熱量を注いでいる点だ。目標が明確だからそうできるのだろう。

 

そのためにはグレーな内容にも積極的に手を出すし、ユーザが不便を被ろうが気にしない。気にしてはいけない。大事なのは自分がお金を稼げるかどうかだからだ。

 

事業家、投資家にはこういう資質が必要なんだろう。良く言えば清濁併せ呑む度量、悪く言えばずる賢さとでもなるか。

 

でも、私には無理だ。

生来のものなのか、サラリーマン生活で身に付いたものかはわからいが、私には仕事はまっとうなものでなければならないという信念、道徳がある。

こんなことやっていいのかなと疑問を持ってしまった時点で、それはもう実施不可能なのだ。

 

つまるところ潔癖症すぎるのかもしれないが、そこが私なりの譲れない部分=価値観となるのだろう。

 

魂が疑問を覚えるようなことはやりたくないし、お金のためという言い訳も嫌だ。

 

だから、そういうのを見ると、まっとうな商売をしようよと思う。

 

 

長くなってきたが、同じような悩みや考えを持ったサラリーマン的男性は少なからずいるのではないかと思う。

世の中の多数派であるのに、あるいは多数派だからこそ、貶められているサラリーマン達。

派手な成功者ばかりが目立つ世の中では平凡と呼ばれるかもかもしれないが、その平凡な大多数がいるからこそ世の中は回っている

 

平凡には平凡の生き方や価値観が あるし、それでいいと思う。

一方でロバート・キヨサキの著も真実の一端を突いていると思うし、取り組んでみたいこともある。

 

 

ただしいざやろうという時に、自分がこれまで培ってきた価値観や道徳まで棄てることはない。むしろその範囲でやれることを実行すべきだ。

その方が自分自身を支える力とモチベーションを保てるし、きっとうまく行くだろう。

だから、自分自身が納得できる人生を歩むためには、他人の意見を参考にしながらも、自分自身の価値観を持ち続けることが大切なのだ。

 

自分の人生の価値観は何か。

それを考えて、見つけて、受け入れた先に、幸福な人生が開けているのだと思う。





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